僕は隙間を埋めていた。隙あらば仕事をしたり、SNSを見たりしていた。歩くときはイヤホンをしていた。
それが悪いとか言いたいわけではない。仕事の連絡はスマホに来るし、友人の近況もそこにある。タイムラインは終わらないし、仕事も終わらない。空いた時間に手が伸びるのは、そこに見るものがあるからで、今の生活でそうなるのは仕方ないことだと思う。自分も今もそうしている。
ただ、9月にたまたまその生活を離れることになって、たまたま気付いたことがあったので書いておく。
たまたま退屈になった
9月は転職の間の有給消化だった。約1ヶ月、予定が何も入っていない。
やっていたのは家事と読書と散歩。妻と分担していた家事を全部引き受けて、積んでいた本を開いて、疲れたら散歩に出る。仕事がないから、それを埋めるための作業くらいの気持ちで始めた。
退屈を過ごすつもりで始めたわけではない。散歩で聞くものがなくなってイヤホンをしなくなり、見る通知がなくなって隙間にSNSを開かなくなった。気付いたらそういう生活になっていた。外の刺激に反応する日々に対して、ただ時間が流れる日々だった。
はじめは、ぼーっとするのは勿体ないと思っていた。この時間に何かできるのに、と。
独り言
退屈にしていると、自分の独り言が聞こえてくる。
今日のあの一言が引っかかったな、とか、これは意外と嬉しかったな、とか。気持ちがポジティブにもネガティブにも揺れていて、その揺れに気付く。
何を感じたのか、何を考えたのか、それはなぜか。そういうことを邪魔されずに考えられていた。日常の出来事から受け取れる量も質も良くなって、それを言葉にする時間があった。何かを成し遂げた日ではないのに、充実感があった。ぼーっとするというか、一つ一つのことを大事にする感じに近い。
刺激を適度に減らした生活が、思っていたよりずっと心地よかった。
逆に、SNSを見ている時間は、この独り言に気付けなくなっていたのだと、あとから分かった。声が無くなるわけではなくて、気付かないまま次の刺激に行っていた。
本を読んで、そうだなぁと思った
10月に入って、谷川嘉浩さんの『スマホ時代の哲学』を読み終えた。
9月に聞こえていたものに、名前が付いていた。
「これだ」「こうだ」という自分の判断や意見に対して、自分の中で広がる靄のような違和感や声のことを、私は「感情のしっぽ」と呼びました。その全体像は自分でもわからず、何を言っているかも明確ではなく、声が一つでない可能性もあるにもかかわらず、何かを言っており、どこかに向かおうとしていることはわかる。
掴めそうで掴めない感じ。確かにしっぽだと思う。
この本は、常時接続で失われたものを孤立と孤独の2つで説明している。
それは、〈孤立〉と〈孤独〉です。それぞれについて言い換えれば、他者から切り離されて何かに集中している状態と、自分自身と対話している状態のことです。
ここで言う孤独は、寂しいことではない。自分と対話している状態のこと。そしてそれには、刺激を入れない孤立が先に要る。
自分は孤独を埋めていたのだと思う。隙間を埋めることで、自分と対話する時間が無くなっていた。
一日中スマホから刺激を浴びていると、スマホを触っていないときにもその感性が持ち越される、とも書いてある。イヤホンを外すだけでは足りないということなのだと思う。
「私たちが孤独の恩恵を受けようとしないのは、孤独になるために必要な時間を、活用すべき資源と考えるからだ」とタークルは指摘しています
ぼーっとするのが勿体ないと思っていた自分のことだった。隙間を資源だと思っていた。だから埋めていた。
つまり、9月の充実感は、何かをしたから得られたものではなかった。刺激を入れなかったから、自分の声が聞こえていた。
10月、再び刺激の波の中へ
10月から新しい会社で働いている。通知も会議も戻ってきた。隙間にSNSも見ている。
本の中でも、SNSを全部やめろという話にはなっていない。自分も無理だと思う。そういう前提に立ったうえで、刺激の波から距離をとって、退屈や不安の湧き出してくる自分に向き合う機会を持て、と書いてある。
毎日日記を書くのも、週末に振り返るのも、効果的な手段だとは思う。ただ、書く時間を確保するだけでは足りない気がしている。振り返りのときに出てくる気付きは、退屈な時間の中で拾っていたものだった。拾う時間がないと、書く枠だけが空いていく。
意識的に作らなきゃな、と思っている。全部空けるのは無理なので、散歩のときはイヤホンをしない。それくらいでいいのだと思う。
退屈は、損している時間ではなかった。
